創業の精神

 創刊号のダイヤモンド誌には、次のごとく発刊の趣旨が掲載されている。『本誌の主義は算盤の二字を以って尽きます。本誌は是とするも非とするも総て算盤に拠り、算盤を離れて何物も無い。本誌の印に算盤を付けたのは此故であります。本誌は、算盤を以て如何なる有価証券に投資するの有利にして又不利なるかを研究し、此方面の人々に向かって一種の転ばぬ先の杖を提供します。そして行く行くは欧米に於いて専ら行われて居る投資案内統計所の制度に倣って、経済界の出来事を争う可らざる数字を以って示し、権威ある報告をなし、米国のロジャア、バブソン統計局の如き、倫敦の投資調査所の如きものとしたい希望であります。更に又一面、広告術、販売術を研究し、如何にして商品を売出すの有利なるかを確かめ、商店主の便利に供したい考えであります。要するに本誌は専ら左の方面に読者を得たいのであります。
 一、各銀行会社並びに其株主
 二、公債社債の所有者
 三、土地家屋の所有者
 四、商店の経営者並びに店員
 五、新聞雑誌社
 本誌の名前をダイヤモンドと付けたのは、小さくとも相当の権威を持たせたいからであります。少なくとも我社同人の有する何物かは確かにダイヤモンド以上の権威を以って臨む事を茲に声明して置きます。』

  この編集方針ともいうべき理念がダイヤモンド社の原点でもあり、経済ジャーナリスト石山賢吉の真骨頂である。今日、社業が大きく発展したのはこの算盤に徹した科学主義が大きな原因のひとつであることは間違いない。会社評論記事が権威を認められていったことで基礎を築き上げたのは石山賢吉の功績であり、かつダイヤモンド誌は経済雑誌界における偉大なパイオニアであった。

  明治初中期の経済雑誌の代表は、1879年(明治12年)に創刊した田口卯吉の『東京経済雑誌』である。二番目は秋田出身の町田忠治が1895年(明治28年)に創刊した「東洋経済新報」である。その2年後には『実業の日本』が創刊。数多くの経済雑誌が出たが、1923年王者「東京経済雑誌」が休刊となった。東洋経済と東京経済は論説中心の自由貿易論に対して、ダイヤモンドは報道を主に掲げ、議論よりはまず事実という建前から生れた。大正期に創刊された主なものをあげると『ダイヤモンド』『財政経済時報』『経済持論』『エコノミスト』『経済往来』『日本評論』 総合雑誌では、『文芸春秋』『面白倶楽部』『現代』『婦人公論』『中央公論』『改造』『サンデー毎日』『週刊朝日』など活況の雑誌界であった。

  現在、数多くの読者を持つ雑誌はこの時代に創刊されたものが多いと思われる。いづれにしても創刊は大変な資金とエネルギーがいる。3号雑誌の多くは、読者に支持されずに消えてゆくことになる。それは現在でも同じである。石山賢吉もその後数々の新雑誌を創刊するが、ダイヤモンドを越えたものはないのである。ダイヤモンドも10年間は売上部数の乱高下が激しかった。それ故臨時増刊号や新雑誌を続々発行して凌いでいったのは言うまでもない。