経済ジャーナリストのパイオニア

 実業の世界の時代に書いた東京電灯に対する攻撃記事が石山の名を上げることになった。決算報告書を研究し、「火力発電が水力発電に変わった結果、資本が遊んでいること、公共企業であるのに1割2分の高率配当は不都合だということから、電燈料金を3割値下げせよ」という論文だった。兜町で大反響をよび東電株が下落したのである。

 会社評論を重点にしたダイヤモンド誌が他誌に比べ認知されたのは、何といっても会社分析の基本が決算報告書によって記事が書かれていることであった。それも数字でもって配当予想や業績予想が論じてあるので明快だ。専門家に拠れば石山の決算報告に関する啓蒙、すなわち会計知識の普及は、当時としてみれば一般のみならず会社経営者や投資家にさえ十分理解されていない状況だったので絶大な信頼を獲得したものといえる。松永安左エ門が「会社評論における中核とも言える社内保留という言葉は石山君の発明だ」とも言っている。社内留保が会社経営の健全化や資本の蓄積に役立ち、生産の増大を促進するわけである。なかんずく石山は資本主義経済の中核たる会社経営の中にメスを加え、全く新しい意味での資本の蓄積、すなわち会社事業における自己資本の蓄積の重要性を力説している。

 石山の著述は無数にあるが、創刊当時の宇治川電気会社事件の誌上論争は、世間に対し絶大の権威を持つに至った。また昭和7年の「庄川問題」はダム工事を機として起こった日本電力と飛洲木材の抗争であるが、周到な調査をした1年にも及ぶ連載記事は天下を沸かせるものだった。執筆中いろいろな妨害や脅迫をうけた。中傷にも屈せず、言論の独立という信念で書き続けた。石山が新聞記者時代、地方の人は人の噂を聞いて株を買う。その時はもう遅い。買って損をする。売る時もそうである。そうならないために株を発行している会社の内容を知らねばならない。そこで、経済記事は難解なので誰でもわかる文章にしなくてはと考えた。

 判る文章とは何か。石山は多くの書籍を読み研究した。とくに参考になったのが、「日本外史」、黒岩涙香の「巌窟王」と漱石の「我輩は猫である」。そして一大発見をした。それは文章を短い章句にすればよいと考えた。石山の文章は一句一句が短い。石山の文章が、判りやすいのはこのためである。また独創的雑誌になったのは、「正確な記事を書こう、そのためには、死んでも売文をすまい」と心に堅く決めたことである。ダイヤモンドが長く発展していったことはこのことにも因る。

 石山は多くの著書を出版している。主にダイヤモンド誌に書いたものを後で書き改めたものが多い。取材記事(名士を訪ね会社経営や人生観、処世術、人物評もの、工場視察、海外取材)と石山の自分史を何度もその時の記事に関連して書いている。文章は平易で読みやすい。経済記事も専門的な知識が無くても読むことが出来る。