雑誌"ダイヤモンド"を創刊
大正2年の雑誌創刊の資金は7円だった。雑誌立ち上げの相談をした日本橋の毛織物問屋米倉嘉兵衛が同情し、発刊趣意書の印刷代と郵送代30円を寄付してくれた。初号は千部印刷し、広告収入があったので全部見本誌として関係方面に寄贈した。
創刊当時は相沢周介(白根町の郵便局長の弟)、佐藤武雄(毎夕新聞の同僚)石山賢吉の三人でスタートした。創刊号はいわばモグリで出した。しかし第2号からはそうはいかない。正式に、政治経済を論評する雑誌は、政府に保証金1000円を供託しなければならない。資金は相沢が郷里の白根町の実家から大金を借りてきてくれたのだ。創刊第2号は2000部発行して8割が返品という惨憺たる結果だった。歯をくいしばって頑張ったが1年間は経営難が続いた。その時賢吉が経済援助や取材協力を受けたのが、福沢桃介である。実業家である福沢は、電力会社の分析を教えた。また広く財界人を紹介した。小林一三にも松永安左エ門にも世話になった。また、鐘紡の武藤山治、富士紡績の和田豊治の知己を得た。服部金太郎(セイコー)には、毎月20円を1年間援助してもらった。藤原銀次郎(王子製紙)もそうである。親切な諸先輩は福沢諭吉が教えた慶応義塾の交詢社人脈である。
創刊以来3年は貧苦の状態だったが、『ダイヤモンド誌』は売れ出した。会社評論が世上の注意を引いたのである。決算報告の見方を会得して、それを中心に会社評論を書く、これが当時、類例がなかったので売れた訳である。大正4年の秋からは第1次大戦の影響を受けた好景気で、ダイヤモンド誌は5000部刷って売り切れとなり、同7年には2万部を越える大雑誌に発展した。会社が黒字になり、以来40余年間、天変地異の場合を除くと赤字になっていない。石山は優秀な人材を社に迎えることが会社を発展させることと考え実行した。鈴木恒三郎、伊藤欽亮、安田与四郎、野崎竜七、石山皆男、星野直樹など論客を外より迎えた。
戦後、石山賢吉は出版界で雑誌成功の三人の巨人といわれた。(あと二人は講談社の野間清治、主婦の友の石川武美)。生涯記事を書くことが生理現象といわれた。『一生筆を捨てず、書けなくなった時を持って、私の最後としたい』 後年、石山は語っているが、いたずらに社内で席を温めることなく、財界人の探訪、工場の見学にいそしみ、あるいは欧米著名会社の決算報告書を取り寄せてこれを研究するなど、未知の世界に挑戦する記者魂はダイヤモンド誌上で光彩を発揮したのである。
小林一三はダイヤモンド25年史〔昭和13年発行〕の中で語っている。『ダイヤモンドは何故成功したか、同じような若い雑誌記者が、百人の中九十九人までうまく行かないのに、なぜ石山君のみが断然頭角を現して、今日の偉大なるダイヤモンドの経営に成功するに至ったか。その素因は、何時でも現状に全力を注いでいること、しかも如何なる場合にも、現状に満足しなくて、一歩一歩先のことを考えて進んできたこと、そうして野心を持たなかったという事にある』 『大きくなって、非常に世間から注目されてきている今日に於いても、同君は少しも無理もしていない。その生活は質素であり、人から恵まれるとか、人から嫌われるとか言うような所は少しもない。この敵を持たない点はわれわれの遠く及ばないところである。』
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