郷里に帰る

 昭和38年6月、郷土訪問を思い立った。伯父川瀬善一郎の墓前に今日のあることを報告するための旅路だった。それは前年37年に出版・産業・教育の功労者として藍綬褒章をうけ、自分が完成させたダイヤモンド社の創立50周年の祝いを挙行した後だった。

 戦前から芦田均と二人で春秋会という勉強会を創立し、多くの経営者、政治家、学者、管理職、一般人が会員となって例会を発展させていた。その春秋会での例会挨拶で石山賢吉は述べている。「自分は慶応義塾の夜学に学び、現在熟員の待遇を受けているが、いわば福澤諭吉先生の門下生の一人である。先生の訓の中にいわゆる天爵を重んじ、人爵を軽んじていることがある。位階とか勲章とかはなにするものかという気概があった。藍綬褒章を受けて喜ぶとは福澤精神に沿わないと考えた。しかしこのたびの授章の趣旨は、自分が先年発表した決算報告の見方の研究が授章の対象ときいて、内心わが意を得たりと思った。なお、褒章の受章は、文部省の推薦によるもので早大の大浜総長、日大の古田理事長と同列に扱われたことはいささか誇りと思っている。」

  「実は、自分が22歳で郷里白根の町を出て、上京する時であった。父親代わりになって、自分を長く育ててくれたおじの川瀬善一郎が、"賢吉よ!おじはおまえに、もっと学費を出して上級学校にも入れてやりたかったが、残念ながらそれは出来なかった。したがって、おまえのからだには資本がかかっていない。それであるから、あまり偉い人にはなれないかもしれない。しかし、しっかりやってこい”としみじみ述懐したものであった。60年前におじから与えられた情理のこもったこの言葉が、いまもなお念頭を去らないのである。自分は80歳を越す老齢にもなったし、受賞や、社の50周年記念祝典などを、いまは亡きおじに報告するため、近い機会に郷土を訪ねるつもりだ」。この里帰りが故郷に錦を飾る最後の旅路になったのである。