50周年
講談社の野間省一は石山賢吉について語っている。「石山さんのもっとも得意とするところは創意創見と、時勢を見通すさい利な慧眼によることである。その全生涯をかけて終始かわらないのは社に対する熱愛の賜とみられる。」と述べ、「また、出版界
の大長老として日本雑誌協会会長や読書推進運動協議会会長に迎えられると同時に、日本科学振興財団の理事や文部省教科書用図書分科審議会委員、国鉄諮問委員会委員、産業計画会議委員など公職を務められた。業界からは印刷文化の功労者として、印刷文化賞を受けられた」と紹介している。
数々の業績は、一出版社の大成だけではない。石山の各界における信望と敬迎は、あたかも泰山北斗を仰ぐ趣である。昭和38年5月、ダイヤモンド社は創立50周年を迎えた。石山は50年を振り返って、過去に書いた事業経歴「私の雑誌経営」「回顧七十年」を参考にして「雑誌経営50年」を著している。その著作の中でおもしろいところを紹介してみる。創刊時の思い出で「創刊号の広告に白木屋の広告をもらったが、生来、広告の勧誘が出来ない性格である。佐藤くんに頼まれて口説いた。私が広告を取ったのは、これがはじめてで、また終わりでもあった」石山は、記者と広告の峻別をし、広告を取る人を入れそれ以降徹底したのである。
実業之世界の頃の話で、「野依君は、主筆に桑島を連れてき、白柳秀湖を招聘して、編集長にした。私は一記者に格下げされてしまった。私は、ジッと辛抱した。私は、精神修業につとめ、一つの悟りをひらいた。”よその人をうらやんではならない。人は人、我は我“それ以来、私は人をうらやむ気持ちがなくなった。これが、以後五十数年におよぶ私の処世に大いに役立った。」
社会主義者の大杉栄とは別懇の間柄だった折の話。「大杉君から金がなくて困る。10円ばかり貸してくれと云ってきた。大杉君は、よく私の社へ来て、尾行の刑事を巻いた。赤坂山王下の社屋は表通りから裏通りまで、筒抜けである。またある時、内務大臣の後藤新平のところへ行って、「カネをもらいにきた」といった。大臣は「どうしておれのところへ、カネをもらいにきたのか」と反問すると、大杉は「私は原稿を書き、その収入で生活しているのだが、原稿の掲載を差し止められて、生活できない。原稿を差し止める親玉は、内務大臣だから、貴方のところへきた」「カネは、なにほど必要だ」「300円」大臣は黙って、奥へ行き300円の紙幣をにぎって、むぞうさに大杉君に渡した。つねに、内務大臣や警視総監に監視されている身が、そこへカネをゆすりに行くなんて、なんと大胆である。一瞬、妙な快感に打たれた」。
昭和4年に成立した浜口内閣の時の話。「経済界が不況になり、我社のふところ勘定も悪くなって、尋常ではなくなった。減俸やわたしの自動車廃止ぐらいでは、何ほどの経費節約にならない。
弊社維持のためには、特別の増収を図るより他なかった。その方法として臨時増刊と値上げを断行した。震災後も経営難だった。大正15年その緩和策として”ボロ会社の研究“という臨時増刊を出した。株価はおおむね、払い込み以下に落ちていた、死屍累々のありさまは異例である。産業資本の基礎をなす株式の価が、払い込み以下ということは続くべきでない。回復しなければ、日本の産業もつぶれてしまう。そこで株価の低落した会社の内容を書いて、投資家に知らせよう。そうすれば、持株にたいして、安心して買う気にもなる。発行前に、監修の伊藤先生が首をひねって、「自分の会社をボロ会社といわれると怒るよ。なんとか、もっと妥当な題号を考えたらどうだ」といった。いかにも思慮分別のある忠告である。「しからばボロ会社に注釈をつけたまえ。ボロ会社というのは、内容が悪いからではない。株価が払い込み以下であるものすべて、ボロ会社というのだと。そうすれば、会社も立腹しないよ」 この臨時増刊は非常に売れた。北海道炭鉱会社から抗議がきた。伊藤先生の忠告どおり弁解した。
数々のエピソードが「雑誌経営五十年」に盛り込まれているのでおもしろい。50周年祝賀記念パーティは5月20,21日の両日、会社の新館8,9階で行われた。
石山会長は、胸に純白の菊花と藍綬褒章・紺授褒章をつけ、手には東京都からおくられた鳩杖をもち、病中とはいえ、今日の日を誰よりも待ち望んだ。
あいさつの中で「会社事業で50周年になるのは、めずらしくはありません。ダイヤモンドは、雑誌社として、また創刊した私が50周年目にいるということが、いささか、めずらしいかと存じます。
私が、この50年を回顧しますと、ひじょうに苦しかったのが、最初の三年と、最後の二年であります。最初の三年は、わずか1000円の資本で、三人の書生がはじめたのでありますから、いかに小雑誌でも、経営が苦しくなるのは、当たり前でもあります。
最後の二年は、帯状ホウシンという妙な病気にかかってしまいました。最初の3年と、最後の2年、つまり、5年間を除く、あとの45年は無事でありました。
50年はいろいろな変化がありましたが、1000円の資本をもってはじめた雑誌としては、現在相当発展しましたが、まだまだ小さいものです。
私は、もう過去の人間でありますが、私が築いた50年の基礎をいかして、私の後継者たちが、いまの何倍かに発展させてくれることを希望しております・・・・・・」
藤山愛一郎、田中角栄,松永安左エ門、永野重雄、鮎川義介、加藤清二郎、松下幸之助などの財界人が祝賀を述べた。
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