青年時代 白根郵便局
尋常小学校時代は明治20年後半から30年頃であるから、地方は田舎然としてそれこそ一地域で一生を終わるのが普通だった。小学校を卒業すると大方農業やら自営の仕事につくわけであるが、中学には家庭の事情で行けず、石山青年と郵便局長の倅の成治の二人だけが高等科に進んだ。
14歳のときに、白根町に電信が架設された。郵便局長から伯父に賢吉青年を電信掛にしてはどうかと話があった。伯父は賢吉を足袋屋へ丁稚奉公させるか、お寺の小僧にするか決めかねていたところで、電信掛の話に乗り、賢吉を新潟の講習所へ通わせた。このとき阿部留太と一緒だった(後年ダイヤモンド社に入社、昭和15年社長に就任)。この頃石山青年の新しい境涯が開けてくる。勉強心が猛然と頭をもたげた賢吉青年は、6ヶ月英学塾へ通い試験に合格し、16歳の暮れに白根郵便局の電信技手となった。局長の長男(相沢成治、後に郵便局長、白根町長、県会議員)も一緒に合格し、同僚となった。
町の青年は年頃になると茶屋遊びをする。20歳近くになると家兄の文蔵に連れられて仙南小路(現・南区白根の桜町)に行った。白根郵便局時代の3年間、仕事はきわめて暇で勉学と遊びに青春を謳歌した。が、しかし居候の身分は厳しいものだった。同僚の相沢成治とは親密な間柄になった。仙南通い(花街)で伯父から勘当同然になった賢吉は、局長の長男に伝染することを恐れられ隣町の加茂郵便局に転勤させられたのである。加茂郵便局には2年勤務した。局の蔵書で「日本外史」や「十八史略」を学び、また「八犬伝」なども読みあさった。再婚した母親が訪ねてきて"石山家を再興せよ"と教えたが、将来何かになりたいという気持ちは絶えず心の底にあった。何かしなければという張り詰めた心が賢吉を上京へと向かわせた。
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