郷里、新潟県白根町(現新潟市)

 石山賢吉は明治15年(1882年)1月2日新潟県西蒲原郡曽根村大字曽根494番(現新潟市西蒲区曽根)で生まれた。父は賢治、母はマスという。家業は雨具などにする油紙の製造をしていた。生まれてすぐに父親と死別、母は家業を義兄九蔵に返し、実家の白根町〔現新潟市南区能登1−5−6〕の川瀬家に戻った。賢吉は幼少、青年期と染物屋を営む伯父川瀬善一郎に育てられた。
 白根は新潟平野のほぼ中央に位置し、信濃川・中ノ口川にかこまれた国道8号沿いの街である。現在は西10数キロのところには上越新幹線、北陸自動車道が通り、新潟駅から南に約20km、車で30−40分のところが石山賢吉の故郷である。白根町は昔から農業を中心に発展したが、信濃川・中ノ口川の洪水と闘いながら新田開発に勤しみつつ現在にいたっている。白根の町は今も300年前から伝わる大凧合戦が有名だ。

 賢吉は白根尋常高等小学校に学んだ。現在の白根小学校110周年記念誌〔1983年(昭和58年)発行〕に、石山賢吉についての記事がある。「幼少にして神童と称された。志を立て上京、苦労しながら慶応義塾を抜群の成績で卒業。大正二年、経済雑誌"ダイヤモンド"を創刊。経済評論に、ユニークな論壇を放つ。号を重ねるに伴い、その公正中立を軸とした産業育成の主張と適確な経済分析は発展期の日本財界に大きな糧を与えた。現在、同誌は日本で最も権威ある経済誌と位置づけられ、日本経済界の指導標とされている。またダイヤモンド社の経済関係の刊行物は世界のベストにランクされている。郷土、白根には常々限りない愛着を抱き、大成されてからも高い見地より町民の誰かれとなく工業立町化を助言し続けていられた。この愛情と持論は昭和9年、白根理研工業の誘致に奔走されたことに見事に結実されている。同工場の白根市に占めるウエイトを考える時、偉大なる先輩石山氏は郷土白根に不滅の光芒を放っているものである。明治15年生れ 昭和39年没。」