復興

 再出発の第一歩は社員のよろこびもひとしおだった。手分けして関西方面への雑誌の発送や都内での駅や兜町で立ち売りに当たった。石山は創刊の時の無料配付を思い立ち、多くの人に“ダイヤモンドの復刊”を知ってもらいたかった。

 焼け野原状態に近い東京の印刷工場は壊滅だった。この時期、ダイヤモンドの強みは印刷工場をもっていた(昭和19年印刷部が独立、ダイヤモンド印刷に)ことに尽きる。印刷工場を持つという石山の発想は、創刊5年の大正7年に内幸町2ー3に土地を買い求め、2階建て30坪の本館と12坪の印刷工場をたてたことに始まる。

 最初の設備では少部数のダイヤモンド日報のみ印刷していた。大正14年から組版、印刷、製本にいたるダイヤモンドの一貫生産体制を整えた。昭和2年にこれまでの活版平台印刷機から時間とコスト面を考え、あらたに輪転機1台を導入、稼動させた。昭和8年には、印刷、製本時間の大幅短縮を目指して2台目の輪転機を設置、また翌年四六全判2回転式印刷機および菊判4ページ印刷機各1台を増設している。当時東京府内の印刷工場中でも大工場と称される水準だった。

 創刊から印刷業になかされ、印刷事業にこだわった石山の雑誌経営の哲学は計り知れない。この戦災を乗り越えるには壊滅状態の中小印刷業を買収することと心得、当時大蔵省の委員をしていた関係で広瀬大臣と集約の相談をしている。印刷業の旨味を知り尽くしたモノが印刷機の投資に走ったわけである。そして一般の印刷需要に積極的に応じた。結果、ダイヤモンド印刷は都内有数の印刷会社に成長した。つまり、本業のダイヤモンドは赤字状態が続いたが、子会社が社の復興をになったわけである。

 戦後は、いち早く言論の自由が保証されダイヤモンドは経済の早期再建を目指して広く指導的言論を展開した。食糧難と物資不足は、インフレを一層拡大させ、信じられない狂乱物価を呼び寄せた。インフレ対策と経済民主化が大きな課題であり、経済危機の中で、GHQによる日本の非軍事化、民主化政策が強力に推進された。財閥解体、農地改革、労組結成奨励、公職追放などが実地された。日本国の大変革が新たな試練を生んだのである。政府は、金融緊急措置令、物価統制令を実施した。石山賢吉はダイヤモンドで「澁沢蔵相に与うる書」を執筆、政府のインフレ対策を痛烈に批判、論陣をはった。経済民主化問題には、経済制度における民主主義の適用と其の限界を説き、経済統制の再出発は現在までの官僚統制を如何に民主主義化するかの論文を掲載している。

 戦後の経済の特徴は、配給制とヤミ経済だ。そして加速度的なインフレを伴って国民各階層とも食糧難と貧困に苦しんだ。この間の経済政策の一つとして、鉄鋼、石炭などの基幹産業へ資材その他を重点的に投入しようとするいわゆる「傾斜生産方式」が取られた。これが経済復興の第1弾となり(昭和21年12月)我が国の鉱業生産はその後ようやく増大に転じ、戦前水準(昭和9年から11年平均)の50%まで回復した。しかし、この一様の回復は、赤字財政、復金融資、アメリカの対日援助などの不安定な要素に支えられたもので、経済自立というものではない。

 昭和23年、GHQの「経済安定九原則」の提案により日本経済の体質改善策、いわゆる“ドッジライン”が推進されることになる。生産拡大策から超均衡財政の確立によってインフレを一挙に収束させることをねらったものであった。単一為替レート(1ドル360円)の設定も行い、企業の自主的合理化と輸出拡大をするためでもあった。インフレはおさまったものの、一転経済活動全体が萎縮してしまった。同時期のシャウプ税制が負担を軽減する物であったにもかかわらず経済は不振を極めた。

 一連の戦後政策の状況下にダイヤモンド誌は、産業界や中小企業の実体を紹介する記事、政策課題をめぐる論壇を展開することに全力をあげた。