セコム その経営と真髄 page 8/12
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50 東京の下町の大商家で暮らしていた「少年・飯田亮」にも、戦争の暗雲が立ち込めた。「世の中に安定などない」ということを、子供ながらに思い知らされたことだろう。小学校6年生の時だった。空襲が激しくなり、....
50 東京の下町の大商家で暮らしていた「少年・飯田亮」にも、戦争の暗雲が立ち込めた。「世の中に安定などない」ということを、子供ながらに思い知らされたことだろう。小学校6年生の時だった。空襲が激しくなり、埼玉県奥秩父の名栗村にあった寺へ疎開し集団生活を強いられた。不安な思いで暮らしていたところ、終戦を前にした1945(昭和20)年2月25日、日本橋の生家が戦火に呑まれた。そこで飯田少年は、両親が先に避難していた神奈川県葉山の別荘に移ることになった。不安、不安定を子供の時に実体験した世代である。不安、不安定がつきもののベンチャーを経営する上では早期英才教育になったと考えられる。 この疎開がきっかけで、旧制湘南中学(現・神奈川県立湘南高校)に入学する。飯田氏は「江戸っ子」から「湘南ボーイ」になる。飯田氏は、生まれ育ちだけでなく、どことなく「いなせな」雰囲気を持っているので「江戸っ子」と見られているが、「湘南ほどいいところはない。湘南育ちはどこかのんびりしたところがあり、顔を見れば分かるような気がする」と述べているように、海越しに富士山が見える温暖で大らかな湘南の風土からも影響を受けている。人は時代とともに生きるだけでなく、土地とともに育つ。飯田氏は、家では江戸時代を舞台にした時代小説を愛読し、外では船に乗り釣りをする。「江戸っ子」と「湘南ボーイ」の2つの顔を持っていると言えよう。飯田氏を知る同世代の経営者は、飯田氏を「堅過ぎず、柔らか過ぎず」と評する。これは、やはりそんな飯田氏の魅力だろうか。 飯田氏は、湘南中学で「軍国青年」の日々を過ごしていたが、入学して4カ月余り経つと終戦