震災死 page 4/10
このページは 震災死 の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。
概要:
016する場所などに区切られていた。震災の日より3?4日後から、親や子どもなどを捜しに来た人たちが遺体を見つけては、泣き崩れていたという。検死は毎日、日没の午後4?5時頃まで続けられた。これ以降は停....
016する場所などに区切られていた。震災の日より3?4日後から、親や子どもなどを捜しに来た人たちが遺体を見つけては、泣き崩れていたという。検死は毎日、日没の午後4?5時頃まで続けられた。これ以降は停電のため、できなかった。遺体は、自衛隊や海上保安庁、警察、消防などにより運ばれてきた。多いときには、1日で体育館に200ほどの遺体が並んだ。まず、警察が泥にまみれたままの遺体の写真を撮影する。その後、学校のプールなどの水で泥を洗い流し、さらに顔のアップなどの撮影。そして、身元確認が行なわれる。ほくろや手術痕などの身体的特徴だけでなく、身に付けていた運転免許証や健康保険証なども、手がかりになるという。この際、何かの事件に巻き込まれていないかなど万が一に備え、入念に調べられる。ここまで時間は約30分。その後、高木氏らによる検死が15分ほど、そして歯科医による歯科所見採取へと続く。県内の解剖施設は、地震や津波により破壊されていたために、ほとんどの遺体は解剖されなかった。溺死の背景には複合要因があった高木氏は、1週間で130ほどの遺体を検死した。新聞などでは「遺体は高齢者が多かっ